「読書会という幸福」向井和美 著(岩波新書)を読む。
帯文に「わたしがこれまで人を殺さずにいられたのは、本があったから、
そして読書会があったからだと言ってもよいかもしれない」とある。
妙に親近感がわいた。
ページを開くと、最初の文章から引き込まれた。
「わたしの両親は、けんかばかりしている夫婦だった。食事中も車の中でも罵り合い、
互いの悪口を子どもに言い、深く憎しみ合っている夫婦だった。」
我が家よりも、ぴりぴりしていたのかもしれない。
著者にとっての現実逃避が、読書だった。
私も同じ。
私の場合、「ここではないどこか」は遠ければ遠いほうが良かったから、
海外の物語を読むと、自分が何者かになったような気分を味わえた。
著者の向井さんは、翻訳家であり、司書でもある。
翻訳の師匠を通して、「読書会」に誘われ、かれこれ30年近く続いているという。
現在メンバーは10人ほどで、皆が同じ本を読んで月に一度同じ場所に集まり、
お茶を飲みながら2時間ほど自由に語りあう。
「本を読み終えてから読書会に出かけるまでは、さながら親鳥が卵を温めるように、登場人物たちを手放さないよう、
物語を忘れないよう、壊さないよう、大事に大事に心のなかで温めておく。そうすれば、たとえばだれかが「この場面で主人公が・・・」と発言したとき、
「あ、あそこだ」と、それがどの箇所のどんな場面だったか、すぐに思い出すことができるし、たちまち主人公の気持ちに自分を重ねることもできる。」
私は読書会というものに参加したことがない。
ああ、でもなんて素敵なんだろう、と思うのだ。
本を読んだ後、登場人物やストーリーを忘れないよう、
”親鳥が卵を温めるように” 慎重に大事に「心のなかのもの」を携えて仲間のもとへ行く。
本を読むこと自体が特別な体験だけれど、
それを、誰かと言葉でやりとりする時間が待っているなんて。
私自身、2年前「おべんとうの時間がきらいだった」を出した後、
とても長い手紙をくださった読者が何人もいて感激した。
そこには、個人的な話が丁寧に書いてあった。
私の本自体がとても個人的な内容だったので、それを読んで、何かしら感じてくれる人がいたということだ。
出版後、対面とオンラインで、「講演会」のような時間を作っていただいた。
でも正直なところ、本の中で私の伝えたいことをほとんど書いているので、
わざわざ本について語るというのもなあ、と思う気持ちもあった。
本を読んでくれた人同士、みんなで語り合えたらいいのに、と思った。
読者ひとりひとり、自分の人生に引き寄せて何かしらの思いを持っているはずで、
それを、その場に居合わせた人同士で共有できたら、どんなに面白い時間になるだろう、と思ったのだった。
講演会の後、参加者の方で何か意見はありませんか? というような時間を持っても、
ほとんど誰も発言してくれない。
うう、さみしい、と思う。
ひとりでベラベラ喋って、そのまんま撃沈、だ。
話を戻して、向井さんの「読書会という幸福」。
私立の中高一貫校の図書館で司書の仕事もしている向井さんが、
「読書会」を企画した時の話があって、これがなかなかだった。
かなりの試行錯誤なのだ。(そうだろう、そうだろう)
なぜなら、全員が本を読んできて意見を言ってくれてこそ、の読書会だ。
無理やり(!)来させることに成功しても、
「面白かった」「読みにくかった」などと、ひとことで感想は終わってしまう。
つい、もどかしくなって向井さんが「登場人物で誰が一番好きだった?」とか、
「印象に残った言葉はある?」などと、突破口を探すのだが、
盛り上がらまま終わってしまう。
じゃあ、前もって皆が考える時間を持てるように、と話し合うポイントを10くらいピックアップさせておいて、
本と一緒に前もって配っておいたら、実際の読書会では「問題と答え」のような単調なやりとりになって、
授業の延長みたいで面白くなかった、というのだ。
ははーん、そうだろう、と大きく頷いてしまう。
だって、私の学校時代、本の内容について意見を言い合った機会など一度もないもの。
国語の時間に物語を読んでも、一度だって、みんなが思ったことを言葉にしあう時間なんて持ったことがなかった。
でも、向井さんの学校の読書会のなかでモーパッサンの「首飾り」を取り上げた時のこと。
男子高生が「もし自分が夫の立場だったら、妻が借金を背負っても放っておく。
だって首飾りをなくしたのは妻なんだから」という発言をした時に、
(物語のあらすじ、ここでは割愛で)
あれ?と思った向井さんが、「でも夫婦は助けあうものでしょ。あなたのご両親は?」とコメントをした。
「(うちは)助け合うどころか話もしない」と高校生は答え、「家族で話なんかほとんどしない。みんなばらばらだよ」「僕は親にも結婚にもなんの期待もしていない」というようなことを、淡々と話し続けたという。
読書会の後、別の司書から「あんなに個人的なことを訊きだすのはどうか」という意見が出たことに対し、
向井さんは「わたしはこういう会話こそが、学校で読書会をする究極的な目的だと思っている。・・・・・本について語ることは自分自身を語ることでもあるのだ。家族関係やいじめや死など、ふだんは口にしにくい話題だからこそ、文学という媒介を使って自分の想いを言語化できるのであり、それはとても重要なことだ」
と言っている。
本当にそのとおりだ。
私は、学生こそ、こういう時間や状況が大きな意味があると思う。
誰かに自分のことを話す、言葉にしてみる、というのはとても勇気がいる。
でも、その一歩を踏み出すと、今まで見えていた世界と違うものが見えるかもしれない。
言葉にするって、そういうことだ。
誰かと共有するって、特別なことだ。
この本を読み終えて、読書会いいなあとすっかり魅了されてしまったけれど、
改めて、自分のことを考えてみた。
私は今まで、誰かと読んだ本について意見を言い合ったことはあった?
ほとんど記憶にない。
そして、分析するならば、あえて言葉にしたくないタイプなんじゃないかしら。
それは、本だけでなくドラマや映画でも似ている。
私は、誰かと一緒よりもひとりでひっそりと映画を観たい。
本を読んだ後、ひとりで、じーっとそれを味わいたい。
口の中で飴玉を転がすみたいに、じんわりじんわり、何かの味を楽しんでいたい。
それを言葉にしたくない。(というか、ボキャブラリーが貧弱すぎて、言葉にできない。
言葉にしようとした途端に、ボキャブラリーがなさすぎて気分が落ち込む)
すごく心に響いた映画を観た後、自分こそがこの物語を誰よりも愛していて理解していて、
私のためにあるような物語だ、と思い込んでしまう。
だから、誰かがそれを「いいね」と気軽に言ったりしたら、許せない気持ちになってしまいそうだ。
たぶん、思い込みが強すぎるのだ。
ああ、嫌なタイプだ。私って。
というわけで、矛盾している。
読書会を素敵だ、と心から思いつつ、私は参加して楽しめるのかしら、と謎でもある。