文芸時評のこと

先週の朝日新聞の記事は、興味深かった。
以前、「文芸時評」の中で、鴻巣友季子さんが桜庭一樹さんの「少女を埋める」をとりあげたのだが、
桜庭さん本人が、記事に書いてあることは、自分の作品の内容とは真逆の解釈だ、と反論。
9月7日の朝刊で、鴻巣さんと桜庭さんが、それぞれ自分の見解を寄稿し、
「朝日新聞の担当者から」も、
「今後文学について前向きな議論が広がることを期待しています」とあった。

気になって、仕事が手につかない。
すぐに「文学界」9月号を手に入れて、桜庭一樹「少女を埋める」を読む。

父の葬儀を終えるところまでは、物足りなさを感じながら読む。
早く、知りたい。
母の存在がひっかかって、たまらないのだ。
7年も実家に帰らずにいたこと、母からの電話なのに、携帯に登録していなかったこと。
ビジネスホテルにチェックインしているのは、コロナ禍のせいではなさそうなこと。
いろいろな感情を抑え込んで、自分の役割を果たそうとする冬子の心は、
そのまま文章の進め方にも表れている。

葬儀後、役割を果たして肩の荷が下りた冬子は、
ようやく母と会話を持ち始める。
ここらへんでやっと、知りたかった事柄が見えてくるのだが、
母の強烈さが、どんどん際立ってきて、
読みながら、何度か本を置いて息を整えた。
我が母と根っこの部分が似ているので、冬子のとらえ方、感じ方、
そして、自分を守るための防御の仕方にいちいち共感してしまう。
あたしが、あたしが、と主張する人に、
こちらの気持ちを言葉にしたところで、響かない。
なぜなんだろう、と私もずっと考え続けてきた。

すべてを終えて、東京に戻った冬子が、
母からのメールを拒絶する。
自分のテリトリーに戻って、いつもの自分の生活を取り戻したところで、
母と繋がって、途端に心が揺さぶられてしまう。
そのリアルさが、よくわかる。
物理的に離れているのに、逃げられない気持ち。

読んでいて胸が苦しい反面、そうなんだよ、そのとおりなんだよ、
と何度も母と娘の描写のところで立ち止まって、読み返した。
いい小説だった。

で、朝日新聞の内容ってそういえばなんだったっけ?ともういちど記事を引っ張り出す。

桜庭さんは「私の自伝的な小説『少女を埋める』には、主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病し、
夫婦が深く愛し合っていたことが書かれています。ところが、朝日新聞の文芸時評に、内容とは全く逆の「(母は父を)虐待した。
弱弱介護の密室での出来事だ」というあらすじが掲載されてしまいました」とまず最初に反論している。

確かに、母は父を密室で虐待した、という内容は書いていない。
ただ、母が父を献身的に看病し、深く愛し合っていた、と言われると、
違和感があって、そういう夫婦だったのかなあ、実のところはどうだったのかなあ、と思う。
そんな、わかりやすい単純な夫婦関係ではなかったんじゃないだろうか、と
全体を読んだ後では思うからだ。
父についての記述がほとんどないので、父という人がどんな人だったのかさえわからない。
昔、母は娘を叩いていた、という内容と、
お父さんをいじめちゃってごめんね、と母が父に言っていた、という記述から、
まあ、いろいろあったんだろうな、と読める。
過去に娘を叩いた人は、立場の弱くなった夫をいじめることだってあっただろう、と思うから。
昔のことを娘がむし返した時に、母はそんなことはなかった、とけろっと言ったという記述があって、
リアルだな、と思った。
ただ、この母は、気質が暴走してしまうんだろう、とも思う。
それを「虐待」という言葉で当てはめられるか、というと、
それは違う気がする。
娘の冬子の側に完全に感情移入しながら読んだ私は、
気質が暴走してしまう母、を持つことの息苦しさをひしひしと感じていたけれど、
それを虐待という言葉にした途端、違うんだよなあ、と思う。

解釈は自由である。

桜庭さんが問題にしたのは、鴻巣さんが解釈でなく「あらすじ」として、
夫を虐待した、と書いたことについてらしい。

でも、私が鴻巣さんの文章を読んで感じたのは、
ヤングケアラーの文脈のなかで、「少女を埋める」をとりあげたことにちょっと無理があったのではないか、ということだ。
「星の王子さま」や宇佐美りん「かか」などとともに、「少女を埋める」をとりあげているのだが、
鴻巣さんは、「語り手の直木賞作家「冬子」も故郷から逃げてきた。ある種のケア放棄者だ」と書いている。
でも、あれを読んで、冬子をケア放棄者だとは思わない。
冬子は父が好きだったし、故郷から逃げたのは、故郷の古い考え方や母親との関係からじゃないだろうか。
ケアをしていないから、ケア放棄者ではないはずだ。
「地元を敬遠するようになった一因は、神社宮司との結婚話にある」ともあるけれど、
そうかなあ。
このエピソードなんかは、母の気質とか生き方がよく表れていて、
地元を敬遠するより、母を敬遠するだろうよ、と思う。

ああ、日曜日が終わってしまう。
今日一日、ずっと「少女を埋める」のことを考えていて、
ブログに書いてみたものの・・・・・いったい私は何がいいたいのか。
困ったな。我ながら嫌になってこのまま下書き保存か、と思ったけれど、
誰かに、「少女を埋める」を読んでもらいたいので、このまま公開します。

家族についてのエッセイを、初めての編集部から依頼されて、
その締め切りがもうすぐ。
文字数が限られていて、難しい。何回かの連載。
最近、母について考えていたので、ついつい熱くなってしまった・・・・・
あああ。























Commented by フレベル at 2021-09-16 10:33
 お考えと動きが手に取るようにわかる文章でした。
 このような形で読めるのがブログの醍醐味でしょうか。

 取り上げられた記事、私も気になっていました。
 さっそく現物を入手されたとのことですが、たしかにあの記事だけではどうにもわからないです。
 私はまだ現物を読んでいないままでの印象ですが、評者は「虐待」という言葉でくくってしまいました。一つの単語で示すと受け取り方がよりずれてきます。また著者も
「主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病し」とくくってしまっている。
 単純にそう言えないからこそ小説の意味があるはずです。
 評者は、同系のものを読み続けているうちに、いつのまにか自分の中に「枠」をつくってしまったのではないかというのが、私は感じたことですが、一方で著者もその評者の土俵に載ってしまっている残念な構図に見えます。

 原文を読む自身を賢明につづってくださる直美さんの文章を読んで、著者自身はそれほど単純でないから作品にしたことが、よくわかりました。
 書いていないこと、書けないことがある。自分に身近な問題であればこそ…。

 関連しているかどうか、うまく説明できないのですが、
 9月11日(土)の朝日新聞beには、小池真理子さんの連載「月夜の森の梟(ふくろう」への応答が記事になっていました。
 夫であり作家の藤田宜永さんを偲ぶ内容がどうしてこんなに魅力的に感じるのか、私自身も(辛い内容にもかかわらず)毎回楽しみにしていて、自分でも不思議だったのですが、
同ページの、文芸評論家の池上冬樹さんが書かれた中にあった一文で納得できました。
「これほど個人的なのに普遍的な広がりと深さをもつエッセー集はないと思う。」
 個人的であればこそ普遍性につながる。

 さらに飛躍するようですが、時々開いてみる「東京商店夫婦」にも徹底した具体性があり、普遍性も浮かんできます。
Commented by Abenaomi2020 at 2021-09-16 15:58
> フレベルさん、あの朝日新聞の記事、やっぱり気になりましたよね! 同じです。
ぜひ、小説も読んでみてください! 読者の数だけ、いろいろな読まれ方があるのが小説の面白さですもんね。
それと、小池さんの連載、私も毎週楽しみに読んでおりました。伴侶を亡くされてその哀しみにとことん向き合って書く文章が、こんなにも魅力的になるのだなあ、すごいことだなあ、と毎回思っていました。湿っぽくならず、読み物として心に響いてくるのは、さすがだなあ、と。個人的であればこそ普遍性につながる、というのは本当にそうですね。
by naomiabe2020 | 2021-09-12 16:49 | 日々のこと | Comments(2)

フリーライター阿部直美のブログ。カメラマンの夫とともに、「お弁当」を追いかけて日本全国を旅しています。日々のちょっとしたことを綴るブログです。


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