これまでは、「ああ、夏休みが始まった~」と、軽くため息をつくのが今頃。
毎日、娘がいる。昼ごはんどうしよう、と頭を悩ませた。
今年は、その娘はまだ帰省しておらず、(これから大学はテスト、らしい)
我が家は季節感なし。
そうでなくとも、フリーランス夫婦ゆえに曜日感覚に乏しく、
土日も平日も、同じリズムで同じように暮らしている。
ああ、これまでは娘のおかげでメリハリがあったのだなあ、と気づく。
オリンピックが始まったけれど、
もともとスポーツ観戦にそれほど関心を持ってこなかった私は、
どのチャンネルもスポーツなので、ちょっとつまらない。
とはいえ、夫は熱心に応援している派なのでテレビはついていて、
何気なく一緒に観ていると、思わず涙が出てしまったりする。
そう、一生懸命の姿はやはり感動的だ。
でも気になるのは、ニッポン! ニッポン! というスタンスの放送や、
メダルの色と数にやたらこだわる姿勢。
どうも、気に食わない。
私は他の国の選手たちの顔や、動きを見るのが好きで、
彼らはどんな背景があって、どういう経緯で日本まで来たんだろうなあ、と想像している。
いい顔だな、と思ったり。
体操の内村選手が、鉄棒で落ちてしまった時には、
とても残念だった。
ずっと頑張ってきただろうに、悔しいだろうなあ、と思った。
でもその後のインタビューで、「皆さんに申し訳ない」
「土下座したいくらいです」と言っていたのを聞いて、
哀しくなってしまった。いたたまれない気分だった。
背負うものが、大きすぎるに違いなく、
ただ、自分が悔しい、だけでは済まされないということだから。
子どもの頃、酔って怒鳴り散らす父の前に母と一緒に正座させられて、
「土下座して謝れ」と言われ(正確には母がそうどなられたのだけれど)
母とともにそれをした娘として、
土下座がどれほど屈辱的な行為か、知っている。
今日の朝日新聞に、山極寿一さんの寄稿文が掲載されていて、
それが、今の私にはぐっときた。
「豊かな「遊び」スポーツの起源に帰ろう」と見出しにある
「スポーツの起源は遊びである。スポーツの本来の意味は「気分転換」であり、それが貴族たちの野外の余暇活動となり、体を酷使する競技となったのは19世紀以降である」から始まる。
山極さんの研究してきたゴリラは、1時間以上も遊び続けることがあるそうだ。高い所に上って胸をたたきあう「お山ごっこ」や数珠つなぎになって歩く「電車ごっこ」に似た遊び。そうやって体を同調させる楽しさを追求するなかで、ルールが立ち上がるという。
人間の遊びもこのルールを踏襲しているし、スポーツの原則もここにあるのでは、と山極さんは説く。
「相手に勝つことが目標でなく、互いに立場を交換しながら競い合い、そのプロセスを楽しみ、勝ち負けにこだわらず健闘をたたえ合う。一緒にスポーツに興じたことによってよりいっそう信頼できる仲間となる。」
「スポーツは私たちの社会を和ませ、新たなきずなをつくることに貢献してきたのだと思う」
じゃあ、今のオリンピックはどうだ? という問題提起である。
私が小学生の時、休み時間にやったドッチボールに燃えた。
男女一緒に、本気で投げ合って、「おめえ、やるじゃん」と男子に褒められたのを覚えている。
ああいう遊びが、ゴリラの遊びか。
純粋に楽しかった。男子とも一体感を感じられたっけ。
「スポーツの起源に帰ろう。」
私もあの日に帰ってみたい。