東京都民のわたし

高校を卒業するまで群馬で育った私は、
「大学進学で上京しました」と、周りに言ってきた。
でも実際は、私が通った獨協大学は埼玉県の草加市にある。
当時住んでいた女子寮が、足立区の竹ノ塚にあったので、
まあ、それならば上京という言葉を使ってもいいかしらん、と思った。
その後、社会人になってからは、埼玉県と神奈川県で暮らした。
勤務地は都内だったけれど、
家賃を考えて選ぶと、東京からはみ出して神奈川県内の電車の終点駅になったりした。
つまり、長い間東京周辺を行ったり来たりしながら生活してきて、
東京都民です、と言えるようになったのは結婚後である。

正直なところ、東京にいつも関わっていながら、
特に愛着のようなものも持っていなかった。

生まれ育った群馬に対しては、強い思い入れがある。
10代は「こんな田舎から外に出るんだ」と思い続け、狭い村社会を憎んで外ばかりを見ていたし、
20代は、定期的に帰らなくてはいけない両親の暮らす家は、息苦しい場所だった。
ようやく20代後半になると、違う見え方になった。
夫と娘を両側に従えて訪れる群馬の家は、争いごとばかりの場所から、
みんなで笑ってご飯を食べる場所へと変わり、
温泉があって川が流れ、山に囲まれた土地が、
理想的な田舎、みたいに見え始めた。
気持ちが違うと、景色も違って見える。
今では、生まれ育った群馬が大好き、なんて大きな声で宣言できる。

ところが、東京に対してはとりたてて何も感じていなかったのだ。
これまでは。
このたび、4度目の「緊急事態宣言」発出で、
ああ、私は東京で暮らしている都民なんだ、と改めて思った。

去年から続いているコロナ禍での生活なのだが、
今回の緊急事態宣言は、これまでになく私にとって重く感じられる。
地方への取材が、何件か続けて延期になった。
東京の人に、今来てもらっては困る。
よその県の小さな集落に暮らす人にとって、
東京ナンバーの車がやってくることは、近所の手前大変な事態だ。
もし、万が一、というのもあるし、
それよりも、そういう人が来た、と知られることが一大事だったりする。

連載の場合は締め切りがあるので、つい取材を進めたくなってしまう自分がいる。
先方に、「ちょっと心配で・・・」と言わせてしまったことが、申し訳なくてたまらない。
取材を受ける側は、そう思っても口にしずらいのは当然で、
それでも、「今来てもらってはちょっと」と口に出すには、いろんな思いがあったはずだ。

この1年半、ずっとそのせめぎ合いをしている。
先方がどう感じるか、もし不安だったら取材を延期する、と決めているのだけれど、
不安でもそう口にできない人もいただろう。
実際、私だって不安だ。

今日まで「オリエンタルハート」という小さなギャラリーで、
「東京商店夫婦」の写真を展示していた。
期間中、本に登場していただいたご夫婦が、たくさん訪れてくださった。
そうすると、ギャラリーの土屋さんが電話をくださり、
阿部がかけつけていける時には、ギャラリーへとんでいった。

本では、40組の夫婦が登場するのだが、
「この本の中の、あのお店に今度行ってみようと思うんです」という声を聞くのが嬉しかった。
登場した者同士の、横のつながり、だ。
ギャラリーに同じタイミングで来た麦茶屋さんとクリーニング屋さんが、
「ああ、あのページの人!」と言って、お喋りする。
これって、素敵じゃないか。

本に登場する皆さんは、
この1年半のコロナの影響を、いろいろな形で受けている。
東京に住んでいることで、地方の親戚に会いに行けない人もいただろうし、
誰かと飲みに行くのを我慢して、遊びも行事も我慢しただろうし、
「東京の人だ」と、嫌われただろうし、
経営が厳しくなった人もいただろう。
神経をすり減らしながら、何とか仕事を続けた人も、
逆に忙しくなった人も。
「東京」在住者だから感じたこと、を共有してきたみんなだ。

今日、ギャラリー展示を片づける前に、
最後に40組の写真を見て、
私は東京都民なんだなあ、と思った。
東京が急に、近く、愛おしく感じられた。
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本の表紙を裏返すとこんな感じです。
折り返し部分を裏にすると、シンプルなつくりに。
サトル君が、ギャラリーで皆さんに「裏返してみてくださいよ」と本の装丁を熱弁していた!





































by naomiabe2020 | 2021-07-14 19:12 | 日々のこと | Comments(0)

フリーライター阿部直美のブログ。カメラマンの夫とともに、「お弁当」を追いかけて日本全国を旅しています。日々のちょっとしたことを綴るブログです。


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