国立(くにたち)市公民館での「図書のつどい」を終えた直後から、
悶えております・・・・・・
あの場面、あの言葉、言えなかった言葉、言わなかった言葉、が襲い掛かってくる。
自分の不甲斐なさに、脱力。
昨年上梓したエッセイは、自分自身の家族について3部構成で書いた。
1、父と母
2、アメリカのハーリー家
3、結婚後の家族 阿部家のこと
家族について話します、ということで2時間の講演会がスタートしたのだけれど、
私はどうも、1、の父と母の部分にこだわりすぎていたのだ。
「おべんとうの時間がきらいだった」自分自身についてわかってもらうためには、
父と母との関係や私の子供時代について、まずは伝えなくては始まらない。
でも、話しはじめてすぐ、自分が海の中でぷかぷか浮かんでいる状態で、
行先を見失って、ただ漂ってしまっていることに気づいた。
本を読んでくれた読者には、すでに私が伝えたいことのおおよそが伝わっている。
でも、参加してくれている多くの方は、読者ではなかった。
だとしたら、どの部分から伝えたらよいだろう。
想定していたことなのに、いざ話し始めると、言葉がするすると逃げていく。
喋るほど、言葉が逃げていって、自分でも驚いてしまった。
私は自分の家族について本にまとめるまでに、20年以上かかった。。
実際に本腰を入れて書き始めてからも、2、3年の歳月が必要だった。
それくらい、何度も何度も頭のなかで繰り返し再現して、書いては消して、
昔の日記なども読み返しながら、
ようやく、1冊にまとまった。
本の内容を喋るのでは、ダイジェスト版でしかなく、
それは、やりたくない。
本を読んでくださった方に、申し訳ない。
でも、父と母との関係を少しでも知ってもらうためには、
あのこと、このこと、小さな毎日のことをひとつひとつ言葉にしない限り、伝わらない。
それを、喋って伝えるのは、途方もないことじゃないか、と
喋り始めてすぐの私は思い、そうしたら、言葉がどんどん自分から離れていった。
家に帰って、反省会。
サトルさんは、会場の後ろの席で腕を組みながら目をつむっていた。
(きっと、いたたまれなかったのよね)
娘は、北海道からオンラインで受講していた。
(当日、公民館の方に「娘さんが参加されていますよ」と聞いてびっくり)
オンライン電話にて、家族反省会。
「なあち、不安でたまらないっていう気持ちがそのまま言葉にあらわれていたよ」
と、手帳をぱらぱらっとめくるサトルさん。
「おれさ、今回ちゃんと手帳につけてたんだよね」
なんとまあ、私が同じ言葉を繰り返していたことなど、指摘。
「確かに、最初の方はお母さん、不安でたまらないって感じだった。
でも、途中から良くなったんじゃない?」
「写真をせっかく見せているのに、その1枚1枚に対して、
もっと話をふくらませれば面白くなるのに、それがなかった。
いつものなあちと、違ったよ」
「あの写真さ、お母さん、絨毯の上に並べて撮ったでしょ。
オンラインで見ると、絨毯のほこりが目立っちゃったよ」
・・・・等々。
家族ならではの、ストレートな指摘。
「でもさ、やっぱり家族について話すのって難しいよ。
しかも、自分自身の家族となると、ねえ」
と家族3人、ここは意見がまとまった。
今後、同じテーマでやるとしたら、
エッセイ本に沿って誰かが私に話を投げかけてくれて、それにこたえるような形式もありかもしれない。
もっと具体的なエピソードや、裏話も交えて話が進むと思う。
私自身は、「家族」のテーマであれば、
読者の方自身の話を聞きたい、そこにいる人同士で共有できたら、そんな「場」を持てたらきっと素敵だと思う。
家族について、悩む人は多い。
でも、外にそれを出すことは、どれほど難しいことか。
反省しかない今回の講演会ではありましたが、
直接来てくださった方、オンライン受講の方、
ありがとうございました。